2009年5月15日金曜日

2009年5月の定例学習会 野川・自然 古今風景

国分寺市緑と水と公園課からの出前講座は初めてでした。

日時:2009年5月14日(木)18:40~20:30
会場:国分寺市本町・南町地域センター学習室
講師:松本徹さん(国分寺市緑と水と公園課緑と水係長)
演題:野川・自然 古今風景
出席者:14名
 
古くから東元町3丁目にお住まいの方が描かれた戦前・戦後のスケッチ画17枚とそのスケッチ現場の解説文の紹介。
スケッチと同じアングルで20年前に撮影された写真。
松本係長撮影の現在の現場写真合計75枚の映像を観賞しました。

以下17枚のスケッチ画についての解説文です。

①泉町 中央線方面を望む(泉町1-2)
野川をはさんで西側に水田と雑木林の丘、その先に中央線の土手があり、さらにむこうに森(現在の日立研究所、ここが野川の水源地)が青くかすんで見えた。国分寺駅から国立方面に行く途中の野川の土手に立つと、中央線に機関車が貨車を引いてよこぎる時、1枚の絵はがきのような美しいながめだった。左手の水田は深い田で、右手の水田は堅田でよく農耕馬が入っていた。この辺りの川には、はるばる多摩川から遡上してきたハヤがここまで来ていた。水草の下をそっとさぐると、手づかみでこどもでも魚とりができたところだが、昭和30年代から住宅化が進み、40年代開発が更に進みすべての水田が消滅している。

②めがね橋(泉町)より下流押切間方面を望む(東元町3-30)
左手が国分寺駅南口(岩崎別荘)及び、くるま坂である。前方の丘の畑が押し流された残りの押切間である。ここで大川(野川)を堰止め、昔、右方向府中刑務所東側を通り、南へ水を流そうとしたが失敗した。右方向の森林は天野別荘(知念医院)、殿ヶ谷戸公園に並ぶ別荘があった。

③くるま坂とみどり橋周辺(南町3-1)
旧一小に通学する子供達にとって、くるま坂周辺は生きた社会教育のメッカだった。ハケの道ばたに流れ出る清水につかる、小さな石をそっとひっくりかえすと、小さな沢ガニが出てきた。そこには、さまざまな水生動物や植物があり、子供達はそれを手に取って見てきたものです。雑草やこけむす穴ぼこ だらけの坂道のあ所をとられながらくだると、眼下に広がる水田、桑畑、丘、遠く多摩の山々が青くかすむ、武蔵野の自然が目にしみる風景を記憶している。戦後、坂の途中から道路が野川に向かって一本できて、川に緑橋(昭和37年施工)という橋がかかった。さらに、その先の押切間の丘も周りの水田に切りくずされて、都の住宅に生まれ変わり、かつての素晴らしい風景は今は見ることはできません。

④野川・馬洗い場(不動橋より100mの所)(東元町3-25)
野川周辺の水田は一部深い田を除き大半は堅田で牛馬が入って作業ができたが、戦前は、手で押す船等の手作業と合わせて馬力を主にした馬耕しろかきも盛んに行われた。戦後20年から10年間、この地域には約15頭の農耕馬が使われていた。特に畑に使う堆肥を作る重要な役目も果たしていた。この洗い場に馬を入れ水をかけて洗う人、草を食み水を飲む馬も、仕事を終えた時のすがすがしい田園の風景をよく見かけたものですが、この洗い場も昭和60年河川改修のため消滅した。

⑤都道・国分寺街道より上流石橋(不動橋)及び押切間(緑橋)方面を望む(昭和18年頃)
左手に水田あり、押し流されたつき山の残りの丘(押切間)がある。戦後田んぼへくずして今はない。石橋は4枚(幅35㎝)の御影石で、河川改修の時(戦後)なくなる。田水用堰は、大正12年施工され(幅3m、高さ1m)、昭和40年代に取り壊した。現在の緑橋はなく、道路は砂利で右手道沿いに清水が流れ、沢ガニが生息していた。昭和16年頃には、多摩川から天然アユ、ヤマベ、コイ、ウナギ等が遡上していた。右手道の先に坂あり、昔はくるま坂と言った。

⑥不動橋周辺を望む(東元町3-13)
この場所は、地域の人々にとって又野川水系の水田にとっても大変重要な所で、子供達にとっても、ここは忘れることのできない思い出のあるところです。不動橋(旧大川)に堰があったところで、雨が降らない時は、ここで雨乞いの行事をしたり、子供達は釣りをしたり、泳いだりした遊び場でもあります。石橋はかつては木の橋で、天保3年石野橋に作り替えているが、その後何回か改修されている。戦後河川改修のため石橋がなくなり、木の橋(昭和44年)になって、不動橋と名付けられ、その後昭和60年河川改修の為今度は鉄の橋になった。あさひ市場のところは、かつては野川ではなく、元町用水から水を引く水田だった。国分寺街道の左手に高島別荘があったところですが、酒屋、薬屋などの並ぶ住宅街に変身している。

⑦駅坂下 湧水の丘(南町3-14)
今の国分寺街道から駅南口に通じる坂の入口で、旧岩崎別荘と万年塀で仕切られていた。桜や紅葉の大木などが日影をつくり、その下にこんこんと冷たい清水が湧いていた。この清水は、今のスタンドがあるところである。水道のない時代、雨がなく井戸が涸れてもここだけは絶えることなく出ていたので、住民にとってとっても重要な水源だったが、今はほとんど出ていない。

⑧旧一小附近と駅周辺の風景(南町3-8)
このふうけいは、昭和16年当時を再現したものですが、遠くに旧一小が見えている。右手下に現在駅に通じる公園脇の道路がみえるが、かつては農道だった。駅前広場が、中央の小屋のあたりで、畑が団地と商店街になっている。手前は、松林とシャガの原っぱで、子供達のホームグランドだった。旧一小の東境より見えるところすべて、旧岩崎別荘の農場であった。駅周辺には、岩崎別荘のほか、つる田別荘、天野別荘、高島別荘、そして中央線北側に今村別荘(現在の日立研究所)がある。駅周辺に多くの大別荘が集中しているのは、この地が山あり川ありで、いかに自然の環境が素晴らしかったかがわかる。

⑨南町ビル(南町2丁目)屋上より南(東元町3丁目)国分寺街道・府中方面を望む
現在の国分寺街道へ下る駅南坂は、昭和33年に開通しましたが、かつては岩崎別荘の通用口であって、一般の方は出入りできなかった。道幅も狭く土の道だった。下ると、東元町3丁目(元本村)に入ると、菓子雑貨屋と酒屋4軒、精米屋1軒、自転車屋1軒、自動車運送屋1軒であった。

⑩不動橋下(石橋)田用水堰
昭和17、18年頃の風景である。雨が降らなく、農作物に被害が出るのを心配して、雨乞いを行った。この行事は、大田区の雨乞いや青梅の雨乞い行事とやり方が全く同じである。村中歩いて、水をかけて歩いた。戦後一度、雨の降らない時におこなわれ、朝から夕方まで村十を歩き廻り、めったに呑めない酒を呑んで神輿を引きづって歩き、さいごは野川の中まではいって、数人が水を飲むということもありました。

⑪大橋(一里塚橋)上流より下流、丸山方面を望む
左手が岩崎別荘(殿ヶ谷戸公園)、その先が駅南口である。前方の丘が丸山で、その手前の森がつる田別荘である。右の塚が一里塚で、今はそば屋さんになっている。さらに右側が高島別荘の木森である。国分寺街道の手前は水田で、今はあさひ市場になっている。水田に沿って代ちゃん掘(元町用水)が流れている。(東元町3-13)

⑫元町用水とその周辺(東元町3-4)
元町用水は西本町1丁目、東元町3丁目の丘のハケから湧き出る清水が水源で、西元町~東本町を1キロ流れて不動橋下の野川と合流している。右手の奥に畑があって、ごぼうなどの野菜が栽培されていた。用水に沿って7、8枚の水田があったが、冷たい水なので、田があたたまらず、あまりお米がとれない時もあった。この用水には、ホタル、ハヤ、フナ、ドジョウ、砂モグリ、タナゴ、川エビなどが生息していた。特にホタルはたくさんいましたが、30年代開発が進み、今はほとんど姿を見ることができません。この風景は昭和16年当時を再現したものです。向かいの家が筆者の生家。

⑬つる田別荘より北、岩崎別荘(殿ヶ谷戸公園)を望む(東元町2-20)
右前方が田村別荘。その先が国分寺街道を経て中央線に出る。左前方の坂が現在の南口へ行く坂でとうじは赤土のすべる道だった。前方の万年塀の手前に清水が湧いていた。

⑭丸山橋上流より下流 小金井方面を望む
左手の山は丸山(南町)右手は東部(東元町1、2丁目)当時の丸山は松の大木と雑木林で家は一戸もなかった。お稲荷さんが1つあるだけだった。東側ハケより清水が出ていた。このあたりの水田地帯には、ヘビ、カエルが多く生息していて、子供達の遊びの場であった。手前に見えるのが丸山橋である。(東元町2-4 大和マンション屋上より望む)

⑮ハタ歯科前岩崎別荘(南町2-5)坂上より東方中央線方面を望む(昭和17年頃)
左手の森は、殿ヶ谷戸公園。その下に水田とあひるの池があった。岩崎別荘内より清水が水田を通り、大川(野川)に入っていた。公園ハケ下の道が旧国分寺街道、その先の中央線に突きあたり、踏切(無人)があった。右手の丘は丸山(南西)で国分寺街道沿いは、崖になっていた。

⑯長谷戸橋たもと(東元町1丁目ビル屋上4階)より南西第一小学校を望む
昭和20年頃の風景である。中ほどの木森は、現在の平安神社のある東元町1丁目の部落で、周辺は桑畑かいも畑、陸稲などの畑だった。丸山(南町1丁目)頂上より南方を望むと木影にかくれて、人家は殆ど見当たらず、春、夏は緑の平原といった感じで、遠く多摩の山々が霞む素晴らしい眺めだった。ヒマラヤの高木のところが、現在の一小のあるところである。

⑯長谷戸橋たもとより(東元町1丁目マンション屋上4階)西北、丸山及び野川上流平安橋方面を望む
昭和20年頃、丸山(右手の高台)には、家が全くなく、お稲荷さんが一つあった。丸山下には、数軒の家があった。丸山と野川の間は水田で、現在の東元町の人々が作っていた。この辺の水田は、上流不動橋(旧石橋)のところから水を引いていたが、田用水が少なく、大変農民は苦労した。野川から左手は、現在の東元町1丁目、その先が2丁目、3丁目と続く。

⑰長谷戸橋周辺と貫井方面を望む(東元町1-14)
中央の道は、国分寺駅から東へ丸山東側を通り抜け野川にかかる長谷戸橋を渡り、小金井市貫井に至る。現在の通りと全く同じで、かつてはこの道を子供達がてくてくと歩いて、夏の暑い盛りこの先の貫井弁天のプールまで泳ぎに通った。陽炎のたつ草いきれのする砂利道だった。野川を挟んで、右手が桑やいもの畑で左手に川と岡にはさまれてすいでんが広がっていた。この辺の水田は、40年代に悪水のため消滅し、住宅地に生まれ変わっている。

戦前、戦後の国分寺周辺の野川の克明なスケッチ画が実にすばらしく大変興味深いものでした。後年になってのスケッチ画と聞き、その記憶の確さにも驚きます。
この貴重な資料が、散逸しないようにと緑と水と公園課がパソコンに取り込んだことにより、多くの人が観賞できるようになったことに感謝したいと思います。
それにしても、戦前の野川は大川と呼んでいただけあって水量豊かな清流だったのです。